壱岐元寇史跡巡り
壱岐は鎌倉時代に2回、いわゆる「文永の役」・「弘安の役」で元軍の襲来を受けました。元軍の侵攻によって島内は戦場と化し、今でも多くの元寇にまつわる史跡が残っています。
元寇についての特集記事はこちらから
- 所要時間:1日
- 主な交通手段:車
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馬場先元軍上陸地
最初に元軍が上陸した場所の1つ
1274年(文永11年)10月3日、高麗を出発した2万5千の元軍(蒙古軍・高麗軍)を乗せた900隻の船団は、10月5日に対馬を襲うと、14日には壱岐へと侵攻しました。
元軍は、壱岐の北西部にある浦海(うろみ)、馬場先(ばばさき)、天ヶ原(あまがはら)の海岸から上陸しました。
壱岐七社である「聖母宮」横に馬場先『文永の役元軍上陸地』の碑があります。
車で10分
文永の役新城古戦場
最後の激戦地
車で5分
新城神社(樋詰城跡)
元寇ゆかりの神社
鎮座置:壱岐市勝本町新城東触441
御祭神:平景隆朝臣 外4柱
例祭日:新10月15日 例祭 小神楽
新城神社は、文永の役で戦死した壱岐の守護代・平景隆の本陣であった樋詰城跡(ひのつめじょうあと)にあります。神殿は、明治19年に造営されました。
元軍から総攻撃を受けた際、景隆は娘の姫御前を呼び、家来の宗三郎をつけて大宰府へ元軍の壱岐襲来を伝えるように命じると、樋詰城内で一族郎党とともに自害して果てたと伝えられています。
景隆をはじめ、元寇で殉難した将兵諸神を安置しています。
近くには、文永の役新城古戦場があり、千人塚の慰霊碑が建てられています。
車で15分
少弐資時像
「弘安の役」のヒーロー像
1281年(弘安4)弘安の役では、4万もの蒙古東路軍が対馬を襲い、次いで壱岐に攻め込んで来ました。北西部海岸(瀬戸浦)と勝本から上陸した元軍を迎え撃ったのが、当時の壱岐守護代、弱冠19歳の少弐資時でした。船匿城(ふなかくしじょう)で全滅したと伝えられています。
「騎乗の若武者・少弐資時公」銅像(高さ約6m、台座含む)は元寇720年記念事業により平成13年に、芦辺港フェリーターミナル前に建立されました。
車で5分
元寇の碇石
元寇を思い起こす
徒歩5分
少弐資時の墓
弘安のヒーローの墓
1281年(弘安4)弘安の役では、4万もの蒙古東路軍が対馬を襲い、次いで壱岐に攻め込んで来ました。北西部海岸(瀬戸浦)と勝本から上陸した元軍を迎え撃ったのが、当時の壱岐守護代、19歳の少弐資時でした。船匿城(ふなかくしじょう)で全滅したと伝えられています。
少弐公園の松林の中に資時の墓があり、展望台の近くには防人ののろし台や、弘安の役の碇石があります。
※少弐資時像は芦辺港フェリーターミナル前にあります。(芦辺町箱崎中山触2575-22)
徒歩5分
壱岐神社
弘安の役で戦死した少弐資時を祀った神社
鎮座置:壱岐市芦辺町瀬戸浦233
御祭神:亀山天皇 外2柱
例祭日:
新4月10日 緑日祭 小神楽
新4月12日 宵宮祭 小神楽
新4月第3日曜 献幣儀大神楽
1281年(弘安4)の弘安の役で戦死した少弐資時貳資時を祀った神社。昭和19年に本殿が造営され、1500年の歴史をもつ壱岐の神社の中ではもっとも新しい神社です。「ショウニイ様」と呼ばれる石積みの塚が資時の墓であることが分かったのは明治31年のことで、600年以上も語り継ぎ守ってきた地元の人々の信仰心が形になっています。300円の猫恵比寿のおみくじがかわいいと人気。
★予め書いてある御朱印を置いています。お参りをした後に、300円をお納めいただき、お持ち帰りください。
※宮司さんのご都合によりお受けできない場合がございます。
車で5分
各宿泊施設
民宿からホテルまで豊富なラインナップ
島内には、民宿・旅館・ホテルなど宿泊施設が50軒ほどあります。
温泉宿、料理自慢の宿などご予算やニーズにあわせてお選びください。
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