平安時代最大の対外危機「刀伊の入寇」と、
戦う貴族・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)の活躍
令和6年の大河ドラマ「光る君へ」で描かれる平安時代中期は、藤原道長をはじめとする藤原氏が天皇の外戚として権勢を誇り、宮中では紫式部や清少納言といった女性文学者が活躍するなど、きらびやかな王朝文化が花開いた一方、異民族の侵攻による対外危機を迎えた時代でもありました。
国境の島・壱岐では、「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」と呼ばれるその事件で甚大な被害を被りましたが、当時、大宰権帥(だざいのごんのそち、現在でいう防衛庁長官)に就任していた戦う貴族・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)らが中心となって、九州本土への異民族の上陸を阻み、撃退に成功しました。
「元寇(文永・弘安の役)」の約250年も前に起きていた「刀伊の入寇」とはどのような事件だったのでしょうか。また、壱岐ではどのような被害があったのか、この時活躍した藤原隆家とはどのような人物だったのかなどについてご紹介します。
写真:賊を相手に奮戦する藤原隆家(『愛国物語』より 国立国会図書館蔵)
「刀伊の入寇」とは
3人の娘を天皇の后にして権力の絶頂を極めた藤原道長が、あまりに有名な「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思へば」の和歌を詠んだのが1018年。
「刀伊の入寇」は、その翌年の寛仁3(1019)年3月28日に勃発したと言われていますがはっきりとはしていません。
国境の島である対馬と壱岐に50隻もの賊船が来襲し、各地で放火や殺人を繰り返した末、博多への侵略を試みた事件です。
「刀伊」とは、高麗(当時の朝鮮)の人々が、賊を「東の夷狄(野蛮人)」という意味で「東夷」と呼んでいたのを日本の文字にあてたものと言われています。
「刀伊」と呼ばれた賊の正体は、中国東北部に住む女真族の海賊集団でしたが、それが判明したのは賊が去った後のこと。
残忍な侵略行為を行う正体不明の軍団に、対馬、壱岐、北部九州沿岸の人々は怯え、九州本土で賊を迎え撃った藤原隆家らも苦戦を強いられました。
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当時の東アジア情勢と女真族の動き
907年に東アジアで強大な力を誇った唐が滅ぶと、しばらく分裂した時代が続いていましたが、960年に宋が建国され、朝鮮半島では新羅に代わって高麗が、満州地方では渤海に代わって契丹が誕生しました。
宋、高麗、契丹という3勢力に挟まれた女真族は、一部が海賊となって、朝鮮半島沿岸を荒らし回っていました。
日本を急襲したのもそのグループの一つと言われています。
のちに12世紀に「金」を、17世紀に「清」を建国した女真族と同じとみられています。(諸説あり)
壱岐・対馬ではどんな被害があったか
突如、賊船の襲撃を受けた対馬では、殺されたり、連れ去られた者が382人。牛馬は199匹が食い殺されました。
続いて賊船は壱岐の北西岸に押し寄せ、湯本(ゆのもと)湾〜片苗(かたなえ)湾一帯から上陸したと言われています。
片苗湾は近世に埋め立てが行われ、現在よりも内陸に当時の上陸地があります。
賊船は1隻の長さが15メートル前後。櫂が30〜40ほどついていて非常に速く、1隻に50〜60名ほどが乗り込み、総勢3,000人ほどの大集団だったとみられています。
100人ほどで一隊を組み、前の20〜30人は刀を振りかざして斬り込み、後ろの70〜80人が弓を持って進軍してきました。
矢は30〜50センチほどで、楯をも射通すほどの貫通力があったようです。
上陸した賊は、手当たり次第に人を捕らえると老人や子供は惨殺し、壮年の男女は船に連れ込み、穀物を奪い、牛馬や犬を殺して食べて、民家を焼き払いました。
壱岐守(いきのかみ)であった藤原理忠(ふじわらのまさただ)は、部下とともに戦死。
壱岐では148人が殺され、239人は捕虜として連れ去られました。生き残ったのはわずか35人に過ぎなかったといわれています。
国司と並ぶ指導的立場にあった嶋分寺(国分寺)の講師・常覚(じょうかく)は、「16人の法師とともに賊と戦い3度までは退けたが、多くの敵に耐えられず1人で脱出した」と4月7日に大宰府へ報告。
嶋分寺は全焼しました。
参考文献:中上史行 「壱岐の風土と歴史」
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藤原理忠の墓
勝本町立石南触には軍場(いくさば)と呼ばれる丘があり、立石仲触には布代城跡と藤原理忠の記念碑などがあって、この付近が刀伊との激戦があった場所と言い伝えられています。
軍場の辻の叢林の中には積石塚があり、これが理忠の墓といわれています。地元では「理忠(りちゅう)さんの墓」と親しみを込めて呼んでいました。
(私有地のため、現在は入れません)
写真提供:壱岐市教育委員会
戦う貴族・藤原隆家が、賊の九州上陸を阻む!
賊は拉致した対馬、壱岐の島民を船に乗せると、4月7日には筑前国(現在の福岡県北部)の怡土(いと)郡、志摩郡、早良郡を襲い、8日には博多湾に浮かぶ能古(のこ)島にいたりました。
この時、国の外交や軍事を司る地方行政機関の大宰府で賊への対応を指揮したのが藤原隆家です。
隆家は、父・藤原道隆が関白を務め、都で一時権勢を誇った中関白家の四男で、刀伊の入寇が勃発した4年前から今で言うところの防衛庁長官として大宰権帥に任じられていました。
賊来襲の報を聞くやいなや、隆家は自ら軍勢を指揮して博多の警固所に向かい、味方の士気を高めます。
9日、賊は博多に上陸し、警固所を焼こうと激戦が繰り広げられました。
日本の矢は敵の半分しか飛ばず、苦戦を強いられたと言われていますが、鏑矢(かぶらや)という音を出しながら飛ぶ矢が賊に恐怖を与えたようで、敵は退却。能古島へ引き上げていきました。
翌10日、11日は強烈な北風が吹き、海が荒れたため賊は能古島から出ることができませんでした。
隆家はこの2日間を利用して、急ぎ兵船38隻を集めると、九州北部沿岸にも精兵を配置し、迎撃体制を整えます。
賊は12日から志摩郡船越津に上陸を始めましたが、船から上陸してきた歩兵に対して、日本軍は騎兵による騎射戦を挑み善戦。さらに逃走しようとする賊の船に対しては、兵船が追撃戦を敢行し、撃退に成功しました。
※「だざいふ」の表記について
歴史上の役所は「大宰府」、行政上の地名などは「太宰府」と書くとされています。
「天下のさがなもの」と呼ばれた藤原隆家
藤原隆家というのは当時、貴族社会の頂点に立っていた藤原道長の甥にあたる人物です。
道長は隆家の父である藤原道隆の弟という間柄で、隆家の兄である藤原伊周(ふじわらのこれちか)は、道長と熾烈な権力争いを繰り広げて破れていました。
京都にいた頃の隆家は、「天下のさがなもの」と呼ばれていました。
「さがなもの」とは、喧嘩っ早い荒くれ者という意味です。
関白であった父・道隆が亡くなった後、隆家は叔父である道長が権力の座に就くと、七条大路で行きあった道長の従者に自分の従者をけしかけ、死者を出すほどの騒動を起こしています。
また、兄の伊周から、“花山法皇が自分の恋人のもとに通っているのでなんとかして欲しい”と相談を受けると、隆家はお抱えの武者をその女性のもとに向かわせて花山法皇一行を襲撃し、法皇の衣の袖を弓で射抜いてしまいました。
花山法皇は無事だったものの、噂を聞き付けた道長は、この騒動を利用して政敵であった伊周・隆家兄弟を左遷したのです。
長徳4(998)年に隆家は、叔母の藤原詮子(ふじわらのせんし/あきこ)による大赦(たいしゃ:国家に吉凶があったときに有罪判決を無効にすること)を受けて、官界に戻ることができたのでした。
藤原隆家はなぜ賊を撃退することができたのか?
都では「天下のさがなもの」と疎まれた藤原隆家ですが、長和4(1015)年に大宰権帥として九州に赴任してきてからは、京で見られたようなさがなものぶりは影を潜めるようになりました。
そればかりか隆家の大宰府での政治は公正で、地元の豪族たちはことごとく隆家に心服していたそうです。
京都で隆家とともにさがなものぶりを発揮していた都の武者たちも、隆家を護衛しながらそのまま大宰府で役人として勤めるようになっていました。
「刀伊の入寇」では、隆家に従って都から来ていた武芸に秀でたやんごとなき武者たちと、地域に根ざした名士/豪族たちが自衛のために組織していた軍団の混成部隊が、隆家の指揮のもとうまく機能したことで、異民族の侵略を防ぐことができたのだと考えられています。
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「元寇に立ち向かった壱岐のヒーローたち」
「刀伊の入寇」から250年たった鎌倉時代に、再び日本が外国から侵攻を受けた事件が「元寇」です。
令和6年(2024年)は、文永の役 蒙古襲来から750年を迎えます。
歴史の教科書では、日本の武士たちが博多湾で懸命に戦い、最終的には神風が吹いて元軍が退散したといわれていますが、博多湾での攻防に先駆けて、壱岐では元軍との決死の戦いが繰り広げられていたことはあまり知られていません。島を守るため、国を守るため、果敢に戦った壱岐のヒーローたちの足跡をたどりながら、壱岐に伝わる元寇の物語に想いを寄せてみませんか。
地方で起こった事件には無関心だった朝廷
「刀伊の入寇」事件の第一報が都に届いたのは、博多の戦いから8日後の4月17日のことでした。
翌18日には公卿たちによる会議が開かれ、賊の追討に功績があった者には恩賞を与える、都へと通じる街道の警固を固める、伊勢神宮などに外的退散の祈祷を行わせるなどの方策が決定しましたが、五穀豊穣を祝う祭りなどは例年通り華々しく行われました。
第一報から1週間後、大宰府にいる隆家から戦闘の終結と、勲功者の名前を列記した報告書が届きましたが、公卿たちの反応は鈍く、恩賞に預かることができたのはたったの2名。
それも隆家と親交が深かった藤原実資(ふじわらのさねすけ)の献言があってようやく実現したものでした。
その後、高麗が日本の拉致被害者約270人を救出し、その送還のために日本へ使者を派遣しましたが、朝廷は使者をスパイだと勘ぐり、土産を持たせて早々に帰国させようとしたようです。非礼な対応に終始した朝廷に対し、隆家は自腹を切って高麗へ金300両を送ったと『大鏡』には記録されています。
戦後処理を終えた隆家は都へと戻りましたが、自らは何の恩賞も要求することなく、官位も中納言のまま生涯を終えました。
しかし、「刀伊の入寇」という異民族による襲撃事件を見事に阻止した隆家の名は、九州で語り継がれていきます。のちの元寇や南北朝の動乱期に活躍した肥後(現在の熊本県)の豪族・菊池氏は、藤原隆家の子孫を名乗るなど、隆家の名は九州の武家にとって特別な価値を持つものとなったのです。
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藤原 実資(さねすけ)が記した日記『小右記』
令和6年の大河ドラマ「光る君へ」で、ロバート秋山さん演じる藤原 実資(さねすけ)が日記『小右記』を記していなければ刀伊の入寇事件は後世に伝わっていなかったかもと言われています。(所説あり)
この異賊侵攻事件について若干の史料しか残されていないことは事実。小右記 寛仁3年夏に記されている、刀伊国、対馬、壱岐守理忠の文字を見ると時代を超えて、リアリティがありますね。
国境の島の歴史に想いを寄せて
令和6年の大河ドラマ「光る君へ」で描かれる平安時代中期は、宮中を舞台に権勢を誇った貴族たちが優雅に和歌を詠み、恋に生き、この世の春を謳歌していた平和な時代というイメージがあります。
しかし同じ頃、九州北部地方において国家の存亡に関わるような危機が起こっていたという事実は驚きではないでしょうか。
国境の島である壱岐では、古来より中国大陸や朝鮮半島との文化的交流が盛んでしたが、「刀伊の入寇」以前にも幾度となく「夷狄」による小さな襲撃に悩まされていました。
そしていざ大きな戦になれば、最前線でその脅威にさらされてきたのです。
壱岐にある「刀伊の入寇」や「元寇」関連史跡を訪れることで、平和の尊さを改めて実感してみてはいかがでしょうか。
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大河ドラマ「光る君へ」は平安オールスターズの時代
紫式部、藤原道長、清少納言、安倍晴明まで!大河ドラマ「光る君へ」にはまさに平安オールスターズが登場!
既に藤原隆家役(俳優 竜星 涼さん)も登場しています。
刀伊の入寇について描かれるかどうかはわかりませんが、今後の流れに目が離せません!